大森運送株式会社

70周年ごあいさつ(準備中)|会社移転に伴う精密機械輸送などは東京都大田区の「大森運送株式会社」にお任せください。

70周年ごあいさつ

創立70周年を迎えて

  昭和26年3月29日に認可を受けて創立した大森運送株式会社は、お蔭様で70周年を迎える事が出来ました。これもお客様各位、何かとご助言・ご協力頂きました皆様方のお陰だと、ここに改めまして心より厚く御礼申し上げます。
実際には『大森運送店』として、70年以上前の戦前より始業しており、その後『大森運送有限会社』を経て、現在の『大森運送株式会社』になった次第でございます。戦前の始業時は「馬と大八車」と言う営業形態で、トラックを使用しての営業は大分後になっての事と思われます。

戦後の昭和20年中頃、私の子供の頃はまだ庭先に馬小屋の名残りが有り、馬具・鍛冶屋の道具等も遊び道具になっておりました。
写真に写っている三輪車の荷台で子供を抱いているのが創業者の私の父、三浦延一で、抱かれているのが私でございます。

当然、戦時中は軍需品の輸送等もしていた様で、上の軍需工場の写真で袋物の仕上げハンマーを振るっているのが父で、出来上がった袋物を搬出し我が社のトラックに積んでいる傍で、後ろ手に立っているのも父です。
この他にも、当ページの下部に「写真で振り返る70年」と言う項目がございますのでご覧くださいませ。

70年という年月を振り返ってみますと、私が継いだ昭和48年は第1次オイルショックの年でした。その後も、バブル崩壊・リーマンショック等々色々有りましたが、戦争と言う未曽有の出来事が有った先代の時代に比べれば、その後の私が経験してきた時代の出来事は、はるかに乗り越え易いものだったと思います。

そんな時代の中、働き方が多様化していると言われますが、時代の変化と共にお客様のニーズも大きく変化していると思います。

しかしながら、私共運送屋が運ぶ物はただ単に品物を運ぶのでは無く、荷主様・営業の方々・そこで製品を完成させるまでの皆様方の熱い思いも運ばせて頂くと言う、基本的姿勢は、どんな時代も変わらぬものと考えております。
当社は「敬客愛品」をモットーとし、お客様に寄り添い、お客様のご要望に真心を持ってお答えし、ご満足を頂ける様励んで参りました。
これからも、運送屋に何が出来るのかを日々考えながら、尚一層社業に励んで行く所存でございます。
今後共、末永くご愛顧頂けますよう、皆々様のご指導ご鞭撻を心よりお願い申し上げます。

本来なら、ご拝眉の上御挨拶を申し上げるところだとは存じますが、昨今のコロナ禍でございますので、ホームページ上でのご挨拶でお許し頂きたくお願い申し上げます。

令和3年3月吉日

大森運送株式会社     
代表取締役 三浦 徳邦

写真で振り返る70年

創業者 三浦 延一

創業者、三浦延一の写真です。
この写真は、創業当時の大森西2丁目から大森北6丁目に引っ越した後、私が大森第六小学校5年生の時に父がPTA会長になり、校長室に歴代PTA会長の掲示に使われた写真です。

大森北へ移転した事務所

大森北に引っ越した時の事務所の写真です。一般区域貨物運送と言う文字が見えます。その左隣に、大森運送株式会社の文字と共に、営業品目と日本全国の地図が有り大きくアピールしているところです。この頃の電話局番が東京は06なんですね。761-1101は創業当時の電話番号なので今も保有しています。

家族写真

真ん中で子供を抱いているのが私の母親でございます。抱かれているのは、昭和8年生まれの三浦家の長男です。(ちなみに私は10人兄弟の末っ子で昭和22年生まれです)前列左右が祖父と祖母で、後ろの6人の内5人が父の兄弟、左から2番目が父です。
残念ながら母は私が7歳の時に亡くなりましたが、祖母は93歳で他界する迄私達兄弟の面倒を見てくれました。かなりの烈女で、米俵を2つ持って歩いたとか、裸馬を乗り回したとか、間違って鉈で指を切り落とした時も医者にも行かず一晩中くっ付けたまま治してしまった等々の逸話が残っています。昔の人は凄いものです。

出征

この写真は、上の三浦家の写真の左から3人目の、三吉叔父さんの出征の時の写真です。鳴り物入りの盛大な出陣式となっている様です。激戦が報じられていた南方に出陣し、無事に帰還しました。その後は、故郷の三重県鈴鹿市で農業を営んでおりました。

猪狩り

左側の散弾銃を持っているのが父で、父の趣味だった狩猟時の写真です。私の子供の頃は家の中に、熊や鹿等の敷物が沢山有りました。父の狩りの舞台は概ね三浦家の田舎、三重県鈴鹿の山々でした。
猪狩りが主で、勢子を何十人も使って、本人は崖の上で待ち構えていて仕留めるのだそうです。時には追っている猪ではなく背後の崖を登ってくる猪もあったとか!勿論無事に仕留めた訳ですが、父のそんな狩りの話を小学生の私はワクワクしながら聞いていたものでした。

三輪車に乗る父

父が三輪車の運転席に座っている写真ですが、父がトラックを運転しているのは見た事がありません。
単車が趣味で、「陸王」と言う名だったと思うのですが、ハーレーダビッドソンのようなスタイルの単車だったのを覚えています。

野球部の優勝記念写真

1990年頃、「東京貨物健康保険組合」主催の野球大会が毎年盛大に開催されていました。当社も野球部を作り、これに参加し一生懸命やっていました。その甲斐が有り、参加して4~5年位で見事に優勝しました。これはその時の記念写真です(一番左が私です)。いかに熱が入っていたかと言いますと、「優勝」の目標に向かって日曜毎に六郷のグランドで練習、練習が終わると毎回近所の蕎麦屋を借り切って飲みながらの作戦会議。そして試合の度に、応援してくれるメンバーの家族や友人達も一緒に大型バスを借りて、会場の大宮の健保グラウンドに行ったほどでした。そんな訳でしたから、優勝した時は大森運送野球部&応援団一同、歓喜・歓喜の大フィーバー!例の蕎麦屋でのドンチャン騒ぎは言うまでもありませんでした。

サッカーチーム「チームMIURA」

このサッカーチームの写真は、折しもサッカーブームで、サッカー好きの甥達から「叔父さん、今度はサッカーのチーム作ってよ」と言われ作った「チームMIURA」の写真です。会社の従業員と、従業員の息子さん達、私の甥っ子達、更には友人達も集めてチームを作りました。野球部とは違い三浦個人主宰のチームとなりました。大田区の大会にも出て、Aクラスの優勝は逃したもののBクラスでは優勝する事ができました。というのも配車係の息子さん兄弟は、サッカーインターハイ優勝チームのメンバーでしたので、そりゃあスピードが違ったのですよ。終わると、恒例の蕎麦屋です!良い時代でしたねぇ!一番左が私で、その左隣の2人が上記のインターハイ優勝兄弟です。

現在の城南島営業所

この写真は、現在の城南島営業所の写真です。上空からの写真には、4台の2tロングエアサスバンゲート車と2台の2tロングユニック車、2台の4tロングエアサスバンゲート車が写っていますが、あと2台の4tロングエアサスバンゲート車は、他所に車庫を借りて置いてあります。後方に見えている建物が現在の大森運送㈱城南島営業所で、2階が事務所・休憩室、1階が梱包部と言う構成になっています。2枚の写真は昨年、ドローンパイロットの資格を取得して、新しく営業品目の一つに加えたドローンで撮ったものです。

最後まで御覧いただき、ありがとうございました。

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